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学校紹介


KANの人

藤原先生の指導が今の自分のベースになっています

関西の思い出は、いろいろな行事や勉強というより体育館です。朝から晩まで練習していた印象があります。

僕は中学生の時、全国で結果を出せる選手ではなかったんです。藤原先生が熱心ですごく恐かったですけど、強い下手関係なく一から指導してくれました。
藤原先生は技ができなくて怒ることはなかったですが練習の時間が延びることはありました。先生も納得できなかったのだと思います。

自分で練習の終わる時間を決めていても納得できず延びてしまうことがよくあります。練習を進めていくうちこのままじゃ終われないと思ってくるんです。高校での部活が自分の練習のベースになっているんです。

いろんな選手がいますが、高校の時の僕のように伸び悩んだり、トップとの差を感じていても先生の言うことを聞いたり、できる選手を見たり、自分なりに目標を立てたりしていくうちに気付けばトップにいることもあります。高校2年の選抜大会でいきなり2位になって自分でもびっくりしたことを覚えています。

今が厳しくてもオリンピックをぜひ目指してほしいです。オリンピックがすべてではないですが、中学や高校の成績で満足せず、絶対メダルをとってやるとがんばってほしいです。

僕がアテネで演技するとき、日本のメダルの色に関わるんだと思った瞬間、逃げ出したいと思いました。ほかの試合とは意味あいが全然違うんです。アテネで最後と思っていたけど、オリンピックで演技をすることはすごいことだし、すごくいいものだからもう一度出てみたいと思って今があるんです。

藤原先生とは合宿とかジュニア大会などで年に何度か会います。最近会ったときも、藤原先生が僕の技に対して思うことや気になっている点を注意してくれました。ほかの先生はなかなか声をかけてくれないだろうと配慮していただきありがたいです。僕はいろいろな人の声を聞きたいし、それはとてもありがたいことだと思います。

平成7年卒業 水島寿思さん
徳洲会体操クラブ・
アテネオリンピック体操男子団体金メダリスト

活躍する関西OBにインタビュー!

人として生きていく上で 大切なことを学んだ気がします

今思えば、ここでは話せないエピソードが多いんですが(笑)、関西では社会の中で生きていくにあたって、もっとも大切なことを教わったような気がします。
若気のいたりで、やんちゃだった僕をずっと温かく見守ってくれた担任の先生のこと、そして少林寺拳法を通して学んだことなど、多くの関西での経験が、僕を一人前にしてくれたのだと思います。

今では教育関係の事柄にもいろいろと関わっていますが、多くの人たちに恵まれた自分があったからこそ、お返しができる立場にある自分をうれしく思います。


関西は敢為(思いきって物事を行なうこと)精神を実践できる土壌があります。一度きりの人生、今という時間を大切に思い切っていろいろと経験して欲しいと思います。

平成7年卒業 水島寿思さん
昭和55年卒業
獨協大学経済学部

卒業生の活躍

110余年の歴史の中で、様々な人材が各方面で活躍しています

秦 佐八郎横川 定 秦 佐八郎(写真左) 横川 定(写真右)
コロンブス以来、医学界ではまず不治の病とされていた梅毒の治療薬サルバルサンを、ドイツのエールリッヒ博士と共に創製した秦 佐八郎(明治24年卒)、台湾医科大学で寄成虫学を研究した横川 定(明治34年卒)の両名は世界的な功績をあげました。
次田 大三郎 次田 大三郎
政官界志望の者も多くあり、次田 大三郎(明治35年卒)は内務省に入り、茨城県知事を経て内務次官から貴族院議員に勅選されました。
第2次世界大選後、幣原喜重郎内閣ができると国務大臣内閣書記官長になり、戦後処理に尽力しました。
なお彼は当時克明な日記を付けており、それが関西高校に寄託されていましたが、先年これを公表したところ、全国の新聞がとりあげ大きな話題となりました。
松本 学 松本 学
松本 学(明治37年卒)は内務省で福岡県知事や局長を経験したのち、貴族院議員に勅選され、「日本文化連盟」を作って文化運動を指導しました。
戦後は世界貿易センター会長となり我国の経済復興に寄与しました。

赤城 朝治(明治38年卒)も内務省に入り衛生局長から福井県知事を経て内務次官になり、そののち日赤副社長、済生会理事長として社会福祉事業に尽力しました。
土光 敏夫 土光 敏夫
実業界ではなんといっても土光 敏夫(大正5年卒)が抜きん出ています。
東京石川島造船所に入社以来、卓越した経営手腕で取締役となり、昭和25年には石川島播磨重工業株式会社の社長に就任。
昭和40年には東芝社長として世界的企業に成長させました。
そして同49年には、経団連の会長、同56年第2臨時行政調査会会長に就任して、「増税なき財政再建」を基本理念とする”行革”を推進すべく行動し、3公社の民営化など改革実行に執念を燃やし続けたことは、今も国民の記憶に鮮明に残っています。

このほか実業界では、大和銀行頭取となった有松 潤一郎(明治45年卒)、毎日新聞社長梅島 貞(大正11年卒)などが中央で活躍しました。
中山 巍有本 芳水
料治 熊太柴田 睦陸
中山 巍(写真左上)有本 芳水(写真右上)
料治 熊太(写真左下)柴田 睦陸(写真右下)
文化人としては、全国の少年少女を魅了した詩人の有本 芳水(明治38年卒)、画家で独立美術の重鎮である中山 巍(明治45年卒)、歌会始選者の岡野 直七郎(大正4年卒)、陶器研究家でもある料治 熊太(大正8年卒)、明治大学総長となった商学博士の佐々木 吉郎(大正5年卒)、臨済宗官長岡田 元亨(大正11年卒)、二期会の創設者でオペラ歌手柴田 睦陸(昭和5年卒)などがいます。
槙本 楠郎 槙本 楠郎
文学界でも幅広い人物を輩出しています。まず、槙本 楠郎(大正6年卒)は、プロレタリア児童文学の開拓に努め、「文芸戦線」に短歌、評論を寄稿し、労農芸術家として文筆活動を行いました。戦後は日本児童文学者協会創立の中心的なメンバーとなりました。
石川 達三 石川 達三
石川 達三(大正13年卒)は、「蒼氓」で第一回芥川賞を受賞以来本格的な作家活動に入り、「人間の壁」「生きている兵隊」「四十八歳の抵抗」など、社会的問題を意欲的に取り上げた作品を残しています。
槙村 浩 槙村 浩
槙村 浩(昭和6年卒)は本名を吉田 豊道といい、高知県の出身で子供の頃は<神童>といわれていました。彼は詩を作る才能に恵まれ、多くの反戦詩を作りました。著書として「バイロン、ハイネ」「日本詩歌史」があります。
玉沢 煥 玉沢 煥
理工学面では玉沢 煥(明治33年卒)があげられます。
彼は東京帝国大学工学部より海軍に入り、戦艦長門の設計を担当し、後に海軍造船中将となりました。
大本 修 大本 修
大本 修(昭和19年卒)は芝浦工業大学を卒業して、同大学の教授となり、電子工学を研究することとなりました。
そしてアメリカのマサチューセッツ工科大学客員教授兼NASA研究員にもなり、アポロ計画に参加して人工衛星に取り付ける太陽電池を開発しました。
神野 光男 神野 光男
神野 光男(昭和18年卒)は京都大学理学部を卒業して天文学者となり、太陽彩層中のコロナ観測で、世界の定説を変える大きな成果をあげました。
山岡 光太郎 山岡 光太郎
また、男子校ゆえに、世界を股にかけた冒険野郎も出てきています。
山岡 光太郎(明治33年卒)は東京外国語学校(現東京外大)を出て中国に渡りましたが、そこでイスラム教に出会い改宗しました。そして探検家となり、明治43年サウジアラビアに渡航し、アラビア砂漠を徒歩縦断して、日本人としては初めてメッカ巡礼に成功しました。
彼の紀行文「アラビア縦断記」は明治天皇も愛読されたということです。
東 善作 東 善作
東 善作(大正4年卒)は卒業後飛行士を志し、アメリカに渡ってその資格をとりました。
昭和5年には小型機を購入して「シティ・オブ・トキョー」と名付け、アメリカ、ヨーロッパ、アジアの3大陸を横断して、日本へ帰る大飛行を敢行しました。
大杉 勝男 大杉 勝男
スポーツが開校時より盛んな学校であることは、岡山県随一といえます。
特に野球部は明治より28年、英語教師で後社会主義者として有名な、安部 磯雄によって創部されました。
戦後復興が始まったばかりの昭和23年、甲子園に東中国地方代表として初出場し、よく戦ってベスト8に残りました。これ以後甲子園には何度も駒をすすめています。
大杉 勝男(昭和38年卒)は卒業後ノンプロから東映に入団、飯島コーチから「月に向かって打て」のアドバイスを受けて開眼し、ホームラン打者の道を歩み始めました。昭和50年ヤクルトに入籍。同53年の日本シリーズでは10打点4本塁打をマークして優勝に大きく貢献し、最優秀選手(MVP)に選ばれました。1997年1月には野球殿堂入りを果たしました。
森末 慎二 森末 慎二
体操競技部も伝統的な強さを誇っています。
その中から森末 慎二(昭和51年卒)が生まれました。
ロサンゼルスオリンピックで、鉄棒で満点演技を為し遂げて金メダル。
さらに跳馬で銀メダル、団体で銅メダルと3個のメダルを手にしました。
現在はテレビタレントとしても有名です。
水鳥 寿思 水鳥 寿思
森末慎二に続き伝統的な強さを持つ体操競技に、また一人ヒーローが現れました。平成11年卒の水鳥寿思です。
彼は2004年のアテネオリンピックで体操男子団体で金メダリストになり、2007年のシュツットガルト世界選手権でも団体総合で銀メダル、個人総合では銅メダルを獲得しました。

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