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学校紹介


KANの人


夢の中の将来じゃなく、大人になったら決して戻ってくることはない今を大切に。

高校時代のこと・・・。小学4年から続けていた剣道は、厳しい部活の指導もあってよく憶えています。剣道は大学卒業まで続 けました。大阪で就職してサラリーマンを一年少々経験したのですが、「違う人生も試したい」と思い始めて、あてもないまま上京しました。
たまたま同郷で同学年の劇団俳優と知り合い、1989年に彼のいる劇団「東京サンシャインボーイズ」に入りました。約6年間そこで頑張ったのですが、1994年に劇団が長い充電期間に。充電といっても実態は解散です。
でも、映画などに出てみたいという思いが捨てきれず、現在の事務所に入って今日まで俳優を続けています。そもそも石橋をたたいて渡るような性格の私が、突然のようにこの世界に飛び込んだのは、何も知らない所に飛び込んでみる勇気、つまり子どもの頃から持っていた冒険心を試すには「今しかない」と思ったから。
しがらみのない若かった当時の決断を大切にしたかったんです。中学、高校生のみんなの中には、将来が描けないことに悩んでいる人もいるかもしれません。でも、無理に夢を持たなくていい。無理をすればどこかにひずみが出ることもあります。夢の中の将来じゃなく今を大切にしましょう。「大人になったら決し て戻ってくることはない今を頑張ろう」とスイッチを切り替えてみてください。一人ひとりに違いはあっても、今を100%頑張るのは間違いなく楽しいし、次へつながるはずです。

平成13年卒業 岡ア宏之さん
昭和59年3月 電気科卒業
東山中学校出身


視野を広く持って世の中を見て、好きなものをたくさん探してください。

岡山大学理学部物理学科に進むという目標を持って、関西高校に入学しました。
在学中、先生方からの的確で力強いご指導 の甲斐あって、無事岡大に進むことができ、後に同大大学院自然科学研究科修士課程を修了しました。
現在も大学院時代に引き続いて、超電導分野の研究をしています。超電導を示す物質にはいくつか種類がありますが、現在は、近年新しく見つかった鉄系超伝導体に対してナノテクノロジー等を使い、超伝導特性がどのように変化するかなどを探っています。物質探索などでは世界初の発見ができるという可能性もある分野で、研究者としてのセンスや勘も試されます。醍醐味というと、未知の 領域に誰よりも早く触れられるという事。中学時代には考古学もやってみたかったのですが、今ではベストの道に進めたと思っています。
みなさんもやりたいことはいろいろあると思いますが、視野を広く持って世の中を見て、もっともっと好きなものをたくさん探し出してください。また、今しかできないことに本気で取り組んでみてください。
面白い先生が多いというのが関西の魅力。理系以外には苦手科目もあった私ですが、古典や英語などにも興味を持って取り組めました。先入観を持たなければ、どの分野にもあなたにとってのやりがいが存在するはずです。関西は、それを見つけさせてくれる学校です。

平成13年卒業 岡ア宏之さん
平成13年普通科卒業
邑久中学校出身


1 つの目標に向かって最後までやり遂げる達成感を経験することができた。

 「ビックライントレースカー」。これは、黒い床に引かれた白線をセンサーで感知して進む電気自動車です。
昨年、木を削って車体を作ることから始めて4カ月。先生方の指導のもと、冬休みを利用して試行錯誤しながらなんとか完成しました。
そして「テクノフォーラム」という、県内の工業系高校が研究発表する大会で、優秀賞を獲得することができました。
コンピュータで制御プログラムを作る、部品を取り付ける、研究内容を整理して紙面にまとめる。
途中「間に合わない」と諦めてしまいそうになりましたが、一つの目標に向かって、みんなで励まし合いながら協力して達成できたことがとてもうれしく、
関西高校に入学してよかったと思います。今は、さらに改良して、文化祭でデモンストレーションを行う準備を進めています。

平成24年3年生 畑裕樹さん


関西の卒業生だと自慢できるように頑張りたいです。

関西はやんちゃな高校。入学するまではそんなイメージがあって、最初は「いじめられたら、どうしよう」と思い、少し不安がありました。でも、入ってみたら、そのイメージは180度変わりましたね。男子ばかりなので、和気あいあいとしているし、とにかく先生が楽しいんです。あまり勉強したという記憶はないんですが、授業も楽しかったですね。

一番の思い出は、部活です。僕は吹奏楽部でクラリネットを吹いていましたが、今振り返ると、高校時代は部活しかやっていないような感じで、みっちり打ち込みました。コンサートのほか、運動部の試合の応援にもよく行きました。野球部の応援で、甲子園へ行って演奏したことも楽しかった思い出です。

顧問の日玉先生の指導は、こわかったですよ。校内行事の演奏などはつい気がゆるむものですが、そういうところは厳しく指導されました。また、僕は部長をしていたので、部員をまとめていく上でもよく怒られましたね。でも、そんなふうに頑張ったことが、その後、大学へ進学したときも心の支えになったように感じています。僕は名古屋商科大学へ進みましたが、それも日玉先生の勧めがあったからです。

大学卒業後は岡山に戻り、住宅メーカーのミサワホームで営業をしています。入社して3年目、部署で一番年下ですし、先輩方を見習い、日々勉強しているところです。入社間もない頃は仕事でつらいことがあり、高校へ帰ってきて「もう辞めたい」と日玉先生に相談したこともあります。そのときは「何言いようねん」と先生に一喝されました。怒られたことで、元気をもらいましたね。

これからの目標は、やっぱり営業なので、成績を残したいです。よく仕事は成績じゃないとも言われますが、一番説得力のあるところだと思います。「さすが関西の卒業生」と言われるよう、優秀な営業マンになりたいですね。また将来、僕たち夫婦に男の子が生まれたら、絶対に関西高校へ入れるつもりです。

平成15年卒業 三木秀宣さん
ミサワホーム中国株式会社 勤務


藤原先生の指導が今の自分のベースになっています

関西の思い出は、いろいろな行事や勉強というより体育館です。朝から晩まで練習していた印象があります。

僕は中学生の時、全国で結果を出せる選手ではなかったんです。藤原先生が熱心ですごく恐かったですけど、強い下手関係なく一から指導してくれました。
藤原先生は技ができなくて怒ることはなかったですが練習の時間が延びることはありました。先生も納得できなかったのだと思います。

自分で練習の終わる時間を決めていても納得できず延びてしまうことがよくあります。練習を進めていくうちこのままじゃ終われないと思ってくるんです。高校での部活が自分の練習のベースになっているんです。

いろんな選手がいますが、高校の時の僕のように伸び悩んだり、トップとの差を感じていても先生の言うことを聞いたり、できる選手を見たり、自分なりに目標を立てたりしていくうちに気付けばトップにいることもあります。高校2年の選抜大会でいきなり2位になって自分でもびっくりしたことを覚えています。

今が厳しくてもオリンピックをぜひ目指してほしいです。オリンピックがすべてではないですが、中学や高校の成績で満足せず、絶対メダルをとってやるとがんばってほしいです。

僕がアテネで演技するとき、日本のメダルの色に関わるんだと思った瞬間、逃げ出したいと思いました。ほかの試合とは意味あいが全然違うんです。アテネで最後と思っていたけど、オリンピックで演技をすることはすごいことだし、すごくいいものだからもう一度出てみたいと思って今があるんです。

藤原先生とは合宿とかジュニア大会などで年に何度か会います。最近会ったときも、藤原先生が僕の技に対して思うことや気になっている点を注意してくれました。ほかの先生はなかなか声をかけてくれないだろうと配慮していただきありがたいです。僕はいろいろな人の声を聞きたいし、それはとてもありがたいことだと思います。

平成7年卒業 水島寿思さん
徳洲会体操クラブ・
アテネオリンピック体操男子団体金メダリスト

活躍する関西OBにインタビュー!

妖怪画家として活躍できるのも、関西の3年間のおかげです。

関西での一番の思い出は、文化祭の門を僕たち美術部で作ったことです。装飾のアイデアを考え、1週間、昼夜ぶっ通しで大工仕事や彫刻をしました。「自分で考え、ものを作る力」を学んだ貴重な体験でしたね。

また、顧問の中村先生が面白い方で、「美大をめざせ」と勧められ、2年のとき「東京の美大予備校の夏期講習へ行ってこい」と言われたんです。宿泊先は「電話して断る先輩はいないから」と、東京在住のOBのリストをどさっと渡され、実際に泊めてもらいました。その後、僕は東京の美大へ進みましたが、今度は後輩が訪ねてきて、面倒をみるようになりました。そういう先輩・後輩のつながりが、綿々と受け継がれているんです。

今、好きな妖怪画の世界で活動できるのも、関西で過ごした日々があったからこそと感謝しています。

平成元年3月 関西高等学校卒業 天野行雄さん
平成元年3月 関西高等学校卒業



人として生きていく上で 大切なことを学んだ気がします

今思えば、ここでは話せないエピソードが多いんですが(笑)、関西では社会の中で生きていくにあたって、もっとも大切なことを教わったような気がします。
若気のいたりで、やんちゃだった僕をずっと温かく見守ってくれた担任の先生のこと、そして少林寺拳法を通して学んだことなど、多くの関西での経験が、僕を一人前にしてくれたのだと思います。

今では教育関係の事柄にもいろいろと関わっていますが、多くの人たちに恵まれた自分があったからこそ、お返しができる立場にある自分をうれしく思います。


関西は敢為(思いきって物事を行なうこと)精神を実践できる土壌があります。一度きりの人生、今という時間を大切に思い切っていろいろと経験して欲しいと思います。

平成7年卒業 水島寿思さん
昭和55年卒業
獨協大学経済学部

卒業生の活躍

110余年の歴史の中で、様々な人材が各方面で活躍しています

秦 佐八郎横川 定 秦 佐八郎(写真左) 横川 定(写真右)
コロンブス以来、医学界ではまず不治の病とされていた梅毒の治療薬サルバルサンを、ドイツのエールリッヒ博士と共に創製した秦 佐八郎(明治24年卒)、台湾医科大学で寄成虫学を研究した横川 定(明治34年卒)の両名は世界的な功績をあげました。
次田 大三郎 次田 大三郎
政官界志望の者も多くあり、次田 大三郎(明治35年卒)は内務省に入り、茨城県知事を経て内務次官から貴族院議員に勅選されました。
第2次世界大選後、幣原喜重郎内閣ができると国務大臣内閣書記官長になり、戦後処理に尽力しました。
なお彼は当時克明な日記を付けており、それが関西高校に寄託されていましたが、先年これを公表したところ、全国の新聞がとりあげ大きな話題となりました。
松本 学 松本 学
松本 学(明治37年卒)は内務省で福岡県知事や局長を経験したのち、貴族院議員に勅選され、「日本文化連盟」を作って文化運動を指導しました。
戦後は世界貿易センター会長となり我国の経済復興に寄与しました。

赤城 朝治(明治38年卒)も内務省に入り衛生局長から福井県知事を経て内務次官になり、そののち日赤副社長、済生会理事長として社会福祉事業に尽力しました。
土光 敏夫 土光 敏夫
実業界ではなんといっても土光 敏夫(大正5年卒)が抜きん出ています。
東京石川島造船所に入社以来、卓越した経営手腕で取締役となり、昭和25年には石川島播磨重工業株式会社の社長に就任。
昭和40年には東芝社長として世界的企業に成長させました。
そして同49年には、経団連の会長、同56年第2臨時行政調査会会長に就任して、「増税なき財政再建」を基本理念とする”行革”を推進すべく行動し、3公社の民営化など改革実行に執念を燃やし続けたことは、今も国民の記憶に鮮明に残っています。

このほか実業界では、大和銀行頭取となった有松 潤一郎(明治45年卒)、毎日新聞社長梅島 貞(大正11年卒)などが中央で活躍しました。
中山 巍有本 芳水
料治 熊太柴田 睦陸
中山 巍(写真左上)有本 芳水(写真右上)
料治 熊太(写真左下)柴田 睦陸(写真右下)
文化人としては、全国の少年少女を魅了した詩人の有本 芳水(明治38年卒)、画家で独立美術の重鎮である中山 巍(明治45年卒)、歌会始選者の岡野 直七郎(大正4年卒)、陶器研究家でもある料治 熊太(大正8年卒)、明治大学総長となった商学博士の佐々木 吉郎(大正5年卒)、臨済宗官長岡田 元亨(大正11年卒)、二期会の創設者でオペラ歌手柴田 睦陸(昭和5年卒)などがいます。
槙本 楠郎 槙本 楠郎
文学界でも幅広い人物を輩出しています。まず、槙本 楠郎(大正6年卒)は、プロレタリア児童文学の開拓に努め、「文芸戦線」に短歌、評論を寄稿し、労農芸術家として文筆活動を行いました。戦後は日本児童文学者協会創立の中心的なメンバーとなりました。
石川 達三 石川 達三
石川 達三(大正13年卒)は、「蒼氓」で第一回芥川賞を受賞以来本格的な作家活動に入り、「人間の壁」「生きている兵隊」「四十八歳の抵抗」など、社会的問題を意欲的に取り上げた作品を残しています。
槙村 浩 槙村 浩
槙村 浩(昭和6年卒)は本名を吉田 豊道といい、高知県の出身で子供の頃は<神童>といわれていました。彼は詩を作る才能に恵まれ、多くの反戦詩を作りました。著書として「バイロン、ハイネ」「日本詩歌史」があります。
玉沢 煥 玉沢 煥
理工学面では玉沢 煥(明治33年卒)があげられます。
彼は東京帝国大学工学部より海軍に入り、戦艦長門の設計を担当し、後に海軍造船中将となりました。
大本 修 大本 修
大本 修(昭和19年卒)は芝浦工業大学を卒業して、同大学の教授となり、電子工学を研究することとなりました。
そしてアメリカのマサチューセッツ工科大学客員教授兼NASA研究員にもなり、アポロ計画に参加して人工衛星に取り付ける太陽電池を開発しました。
神野 光男 神野 光男
神野 光男(昭和18年卒)は京都大学理学部を卒業して天文学者となり、太陽彩層中のコロナ観測で、世界の定説を変える大きな成果をあげました。
山岡 光太郎 山岡 光太郎
また、男子校ゆえに、世界を股にかけた冒険野郎も出てきています。
山岡 光太郎(明治33年卒)は東京外国語学校(現東京外大)を出て中国に渡りましたが、そこでイスラム教に出会い改宗しました。そして探検家となり、明治43年サウジアラビアに渡航し、アラビア砂漠を徒歩縦断して、日本人としては初めてメッカ巡礼に成功しました。
彼の紀行文「アラビア縦断記」は明治天皇も愛読されたということです。
東 善作 東 善作
東 善作(大正4年卒)は卒業後飛行士を志し、アメリカに渡ってその資格をとりました。
昭和5年には小型機を購入して「シティ・オブ・トキョー」と名付け、アメリカ、ヨーロッパ、アジアの3大陸を横断して、日本へ帰る大飛行を敢行しました。
大杉 勝男 大杉 勝男
スポーツが開校時より盛んな学校であることは、岡山県随一といえます。
特に野球部は明治より28年、英語教師で後社会主義者として有名な、安部 磯雄によって創部されました。
戦後復興が始まったばかりの昭和23年、甲子園に東中国地方代表として初出場し、よく戦ってベスト8に残りました。これ以後甲子園には何度も駒をすすめています。
大杉 勝男(昭和38年卒)は卒業後ノンプロから東映に入団、飯島コーチから「月に向かって打て」のアドバイスを受けて開眼し、ホームラン打者の道を歩み始めました。昭和50年ヤクルトに入籍。同53年の日本シリーズでは10打点4本塁打をマークして優勝に大きく貢献し、最優秀選手(MVP)に選ばれました。1997年1月には野球殿堂入りを果たしました。
森末 慎二 森末 慎二
体操競技部も伝統的な強さを誇っています。
その中から森末 慎二(昭和51年卒)が生まれました。
ロサンゼルスオリンピックで、鉄棒で満点演技を為し遂げて金メダル。
さらに跳馬で銀メダル、団体で銅メダルと3個のメダルを手にしました。
現在はテレビタレントとしても有名です。
水鳥 寿思 水鳥 寿思
森末慎二に続き伝統的な強さを持つ体操競技に、また一人ヒーローが現れました。平成11年卒の水鳥寿思です。
彼は2004年のアテネオリンピックで体操男子団体で金メダリストになり、2007年のシュツットガルト世界選手権でも団体総合で銀メダル、個人総合では銅メダルを獲得しました。

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